久しぶりに、本当に久しぶりに千葉の実家に帰省することにしました。
昨年、今年となんだか時間の流れ方がよくわからなくなっているというか、季節もそうだし、出来事もつい最近のことのような、ずっと前のことのような。
いざ帰って実家へ帰って来てみると、一見何も変わっていないようにも
思えるけれど、父が入院して退院後は併設する施設入所が決まり、
実家には母がひとり。
私のまわりでも世代的に同じような話をよく耳にするようになった。
せっかく久しぶりに実家に帰るからには何か母の役に立たねば!
などと思うもののできることは家事の手伝い程度のことで、
大変なのは母なのに、母に心配をされてしまう。
いつまでもやっぱり私は娘でしかなくて
それは変わりのない事実なんだけれども。
私がたった数日帰ったところで何かができると思ったのは、
どこか穿っていたのかもしれないな。
とにかく話相手。人がいるという気配。
それぐらいしかできないけれど、今の母の日常には
そんな小さなことでもないよりはいいのではないかなと。
あと笑い。必要!
しばらく行けなかったお墓参りにも行くことができた。
実家から歩いて数分。
晴れた日中のお墓参りは、静かで落ち着く。
誰もいないけれど、怖さは感じなくて祖母としばし
会話するように手を合わせて帰ってきた。
近所で気になっていた川沿いにある空き家のかわいらしい小屋や、
あの家、この家が建て替えられていたり、空き地になっていたり。
小さな町の景色もこの2年ほどで随分と変わっている。
庭の草木も植生が変わっていて、私が子供の頃になじんだ庭の顔とは
ちょっと違っていて、少しよそよそしい。
お邪魔しているような気になってしまう。
あ、私がよそ者になっているということか。
時間も場所も土地も、自分が今どこに属しているのかが不確かだ。
そもそも「属している」という感覚そのものが不確かなものなのかも。
自分の軸は自分の足元にある。
ただそれだけということがこの数日の帰省でわかったこと。
帰省している数日の間に仕事の打ち合わせをしたり、
ほんのわずかな時間、友人と会って良いひとときを過ごしたなと
しみじみ反芻している。
たくさんの顔も浮かぶのだけれど欲張らず。
「会話」とは、会って話すと書くその意味にも大きく頷いた。